蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

何かを「好き」という状態。多ければよいわけでもないし、多いのが悪いわけでもない。それぞれ深さがありますから、数なんてカウントしたって意味がない。
そして、これはなろうとしてなれる状態ではないし、人に強制されるものではありません。例えば、ラーメンが好きな人がいて、其の人がラーメンを好きじゃない人に向かって「ラーメンのおいしさがわからないなんてかわいそう。人生の何パーセントかを無駄にしている」と言ったとします。大きなお世話です。人にはそれぞれ好きになれるものとなれないものがあって、たまたまラーメンが好きになれなかっただけ。ラーメンがおいしくかんじられるのは、其の人にとってハッピーなことだろうけど、他人に押し付けることじゃないと思います。
「好き」の対象が人である場合、とりわけ恋であっても同じなのではないでしょうか。数や年月を計るのはナンセンス。すばらしさを語って他人にもするように押し付けるものでもないでしょう。(「恋の相手が自分にとって素敵なだけ」だと思います。それを抽象化して恋自体が素敵なことだ言ってしまうのも仕方がないと思いますが)
物の場合、物に嫌われることはないから比較的簡単に踏み出せます。しかし、人であると途端にハードルがあがる。「好き」になれば対になって「好きになってほしい」という気持ちになります。告白して「好きです」と言うだけで気の済む人もいるのでしょうが、多くの人は相思相愛になることを望む筈。
ところで僕は、他人に○○して欲しいと思うのは図々しいと思うんです。そんな図々しい行為をするのだと思うと気が引けるのですが、それを自覚しても、こんな嫌いなところだらけの自分でも止められない。そんな状態に陥ってしまうのが恋ではないかと。僕は「好き」からじゃないと始められません。
元々「こういう人を好きになる」という枠が自分の中にあって、それを自覚している人は、条件(背が高いだの、包容力があるだの)を洗い出して判断するということをして恋にたどり着くのでしょう。その効率的な行動はヒトとして当然だと思います。でも、それが出来ない人で、さらに「好き」がわからない人は困惑します。恋に向かって「自分を磨いて」常に準備しなければいけないんじゃないかと。
そういう人に向かって、よくあるアドバイスで「自分に自信を持てるように努力すれば、いつか」なんてのがあります。僕はなんとなく受け入れ難いです。かといってそれに代わる説得力があって未来を保証するような言葉もないのですが。
なんだろう。上のように思ったってこと(恋愛観とでもいうのでしょうか)を話せる人、そして共感を示してくれる人が第一歩なんじゃないかなあ。これが伝わる人なら、ちょっとだけ近づける気がします。
うわ、もう3時だ。
おやすみなさい。