蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

 「何も知らない」

 そこは古いマンションの二階。南側には二つ部屋があって、その東寄りのほう。当時は姉の部屋だった。朝の八時くらいだったから、学校に行ってしまったのだろう。姉は既にいない。レースのカーテンが風にそよいでいる。
 僕は開かれた窓から少し身を乗り出して「いってらっしゃい」と、手を振る。十数秒前に一度玄関でやったというのに、躊躇いはない。送り出す相手は、これから会社に行く父。駐車場へ向かっているところだった。彼は振り返って軽く手をあげて答えた。それから僕は車が見えなくなるまで目で追いかけた。
 居間に戻ろうとすると、母が後ろで優しく見守っていたのに気づく。高いところに微笑があった。
 僕は三、四歳で、保育園にはまだ通っていなかった、何も知らないころの話。
 このシーンだけは、はっきりと覚えている。子どもらしい純粋が見えて、今でも好きだって言える。