蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

二枚強

 僕の中の、所謂「やる気」について考える。
 面白いもの、自分の例として、漫画やライトノベルなどはやる気をだそうとわざわざ思わなくても、勝手に手を出し、読み切れる。遡ること高校生くらいまでは、ゲームもそうだった。親の歯止めがなければ何時間でもやり続けていた。
 しかし、それらは消費であって、生産ではない。消費が悪であると言うのではない。なんとなく、多くの人たちは生産的な趣味を持っていると感じている。それがもの凄く羨ましい。
 昔から、生産的なことに夢中になることがなかった。記憶を辿ろう。
 まず、幼い頃、レゴブロックを組み合わせて何やらつくっていた。これは、生産的な遊びに分類できるかもしれない。あと、テレビゲームを買い与えられるまで、自分で広告の裏にRPGをつくって、サイコロを使って遊んでいた。ただ、これにはすぐ飽きた。そこから現在までの間に生産的な遊びをした覚えがない。
 はてなに日記を付けるのが唯一の生産的な遊びだろう。思いついたときがやる気の出たとき。くだらない、無駄で、どうしようもない文章を書く。そして、それを人に見てもらう。稀に、意見をもらえる。ささやかな喜びだ。
 その延長線上に小説があるのだと思うのだが、一つの物語を書き切るというのができない。頭の中で完成させてから出力しようとするからできないことはわかっている。書きながら考えてよいというのもわかっている。だが、いざ書こうとするといろんなことが気になったり、さっぱり何も浮かんでこなかったりして指が動かない。断片をほったらかしにしてしまう。それで、わざわざ「やる気」というものを奮い立たせる方法について知識を得ようと本を読んでしまう。でも、実践しても続かない。
 何が足りないのか。何が余っているのか。それを軸に思考をしてよいのか。「日記の延長線上に小説」があるという考え方がうまくないのか、それとも「日記の延長線上に小説」があるという考え方でうまくいくと思っていながら、「日記の延長線上に小説」を存在させるように行動していないのか。
 書き起こしてみると、僕にも考えるということはできるようだ。実践するにはなかなか至らないが。