蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

三枚

 なんだかここ最近、自責でイライラすることがある。
 他責ならこれまでもよくあった。条例で禁止されているにもかかわらず歩行喫煙をする犯罪者を見たときとか、そしてその副流煙がこっちに来たり、先端の火が近くを掠めたりしたときとか、店員に対して横柄に振舞う人を見たときとか、自転車は「車」であって危険なものだと認識せずに例えばスピードを出しすぎて運転している人を見たときとか。
 厳密に言えば、それらは他人のせいではなく自分の受け取り方次第なのだけれども、きっかけは他人なので僕は他責と分類する。
 退屈なとき、やりたいと思っている筈なのに時間があってもそれに手を付けないで怠惰に過ごしているとき、本を読んでいても頭に入ってこないとき、そんなときふと気が付くと「イライラしている」と自覚する。このとき、周囲に原因となるような要素が見当たらないので、他責ではなく自責と分類する。
 何故だろう? 自律神経なのかな。そうなると音楽でもって落ち着かせるということもできない。文章にぶつけることもできない。ただ、悶々と何も考えられず過ごす。もしくは、お菓子を食べて食欲で誤魔化そうとする。
 で、こういう問いが出て来ると、いちおうここで書きながら考える。記して残す。でも、それからはほったらかしで、再考することはまずない。そこがダメなんだよ。
 一つの題について深く掘り下げていくということをしない。自分は馬鹿だから無理だと思っているのと、飽きっぽいのと、めんどくさがりのと。複数要因があるのはわかってて、では、どうすれば問いを繰り返して深く掘り下げていけるのか、そもそもそれをしたいと思っているのか、と。
 それができることが「賢い」と思っている。賢くなりたい。口幅ったいが、聡明になりたいのだ。その為に、興味のある本を読み漁ってきたが、それは例えるならば所詮、道具であって、その知識や情報という道具を手にして、考えるという「創造」を実践しなければ、訓練にならない。聡明に近づけない。
 ここの日記には何をしただとか、直感的な見た目のよい言葉、好きな文句、言葉遊びだとかが多いけれど、問いを立てて反芻するということもしていい。気取ってないで、書けばいい。同じようなことを繰り返し書いてもいい。それを自分に許そう。
 優雅さにこだわって何もしないで隠しているより、詰まらないことでも綴っていくのが美しさにより近いと感じる。何より、今まで散々みっともないことを書いてきた。今更だ。


 ブルーベリーのアロマキャンドルの最後の一つが消えようとしている。
 BGMは『愛・覚えていますか』。音楽があると集中できないなんて思っていたけれど、何か違う。曲の種類とか歌手とかそういうのではなくて、そもそもの精神状態が関係あるのではないだろうか。