蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

「煙草」

 夢を見た。確かに、あれは、夢だった。しかし、起きた今、内容をさっぱり覚えていない。夢を見たという記憶があるだけ。わたしは、いったいどんな夢を見たのだろうか。それを知りたくて、わたしは旅に出た。北に向かって。たっぷり二時間歩いたところでさすがに、疲れた。近くにあった公園のベンチに座って、海を眺めていたら、いつの間にか眠っていた。すると、あの夢の中に入ることができた。だいたいこんな話だ。わたしがベランダで、向かいの家の庭をぼんやりと見ながら煙草を喫っていると、猫が話しかけてきた。煙草なんぞを喫っていると、長生きできないぞ、と。五月蠅いなあと思って、右から左へ聞き流していたところで、目を覚ましたのだった。よかった。わたしは、ここに来れば、夢を思い出せる。待て。これは前に見た夢と言えるのか。どうして同じと言えるのか。今見た夢ではないのか。わたしが見た夢は、本当に夢だったのだろうか。

「strangelove」

 朝、目が覚めると男は虫になっていた。グレゴール・ザムザのような虫ではなく、蟻ほどの小ささで、毒にも薬にもならぬ虫だ。それによって男は、心から望んでいた真の自由を手に入れた。これで憂鬱な仕事なんかしなくていい。自由だ! 俺は自由だ! 男は彼の広い部屋を駆け回った。それから、跳ねたり、飛んだりして、目いっぱい楽しんだ。次は、外に出ることにした。風が入ってくるほうの隙間を潜り抜けると、そこは灰色の世界。通りには、いつもなら居るべき人たちが、人っ子一人見当たらない。男は風に乗ってほうぼうを観察したが、男を除いて誰も、ほかの生物が、何処にも存在しなかった。男はよくよく思い出してみた。昨日、一昨日、それよりもっと前のことを。人間だった時の記憶を。薄っすらと見えてきた。電話をしていた。大切な。それが上手くいかなかった。激昂した男は……男だけが押すことのできるあれを押したのだった。

「影」

 とある夏の夜闇、影たちがこぞって逃げ出した。大脱走。翌朝から、ありとあらゆるものは光を浴びても、影を創らなくなった。ところで、光が影を創ると思われているが、しかし、実際、そうではない。影は影。単体で存在する。すっかり自由になった影たちは行き場を探して、探して、とうとう人間の夢の中に入り込んだ。そして、人々は夢を失った。夢に希望を持つ人が居なくなった。一方で、夢に惑わされる人も居なくなった。そう、僕のように。僕は常に夢に惑わされてきた。それは、苦しいものの、返って何にも代えがたい快感でもあった。精神的なマゾヒストなのだ。甘美なそれを失った僕は、抜け殻になった。言葉でしか自分の存在意義を表せない僕が、何も言葉を見出せなくなった。追い詰められた僕は、とうとう遺書を綴った。とても短い文だった。その晩、僕は、夢を見た。影たちが夜から姿を消す夢だった。

2020/8/27

 今、恐れているのは、死。

 死んだあとのことや、死に至るまでの苦痛を思っているのではない。

 ここまで生きてきて、まだ僕は何も成していないから。

 それが、悔しくて、悔しくて。

 

「サイベリア」

 サイベリアの永久凍土から、生きている蝶が発見された! この極めて奇妙な出来事に、世界中の地学者、昆虫学者、歴史学者など、世界中の学者たちが色めきだった。当然である。何しろ、菌やウイルスでもないものが「生きていた」のだから。その上、全身、鮮やかで、且つ、透き通った桃色である。不思議に思わないほうが不思議だった。ロシアに行き、厳重に保管されている箱の中で舞う現物を見た、ある学者が自説を述べた。これは、悲恋の末に自ら命を絶った、高貴な女性の生まれ変わりである、と。周りの学者たちは、この男の言葉は、仮説でもなんでもない。ただの戯言であると切って捨てた。しかし、男は確かに感じていたのである。蝶の涙を。蝶の声を。蝶の魂を。爪弾きにされた男は、彼女を想って学者を辞め、詩人になった。その後、たったひとつの作品を残したが、誰にも知られることなく、消えていった。

「雲」

 だいたい、夏の雲というものは威張っている。それは人々がすぐに思いつく、夕方の怒りをはらんだ、入道だけに限らない。朝から晩まで、大小さまざま、実に偉そうにしているのである。夜深くの空を想像していただきたい。見上げてみる。月や星たちを隠して、自分が主役である、そう振る舞っている。しかし、実際それは間違っていない。夏は雲のものである。雲ひとつで、すべてが決まる。これは過言ではない。人々は踊らされているのだ。光より影を創る存在のほうが圧倒的に強者で、必然、我々はそれに従わざるを得ない。生意気な小僧のたたずまいに一喜一憂してしまう。そんな雲は、誰に造られたわけでもなし、仕掛けを持っているわけでもなし。そこに意思は無い。意思が無いから、かえって余計に威張っている面持ちを見せるのだ。あゝ、雲には勝てない。

「土」

 幼子は川を渡った。橋の無い川を。だから、舟で渡った。三途の川でないので、六文銭は要らなかった。身に着けるもののほか、持っていたのは、一握りの土だった。少しも落とさぬよう、その小さく柔らかい手で、大事に大事に握っていた。船頭は口をきかず、幼子も黙っていた。穏やかな流れの川を、船は五分ほどで渡り切った。幼子は、しっかりと組まれた渡し場に降り立ち、今来た景色を見た。だが、いつの間にか霧がかかっていて、よくわからなかった。幼子は、そのことに酷く腹を立てた。すると、大切に運んできたはずの土を、川に放り投げ、自らも飛び込んだ。こんなにも愉快だったとは。幼子は大いに笑い、潜ったり、浮かんだりを繰り返して、しばしのときを過ごした。気が済んだ幼子は、陸に上がり、寝転んだ。ずぶ濡れで冷えた体のまま。やがて、幼子は、その姿勢のまま、冷たくなってしまった。その手には、やはり土が握られていた。

「煙」

 その男は煙になった。毎日、一箱、煙草を呑んでいたら、細胞の奥の奥にまで煙を入れてしまい、姿かたちがすっかり煙になってしまったのである。齢三十七。しかし、男は男である。何の問題もなく暮らしている。煙になったところで何が変わることもなく。いつから煙になったのかを正確に判断はできない。徐々に徐々に煙になっていった。ただ、もう男は完全に煙である。煙として生きるほかない。人間ではない、煙なのだ。とはいえ、周りの者たちは男を煙だと思っていない。わかるはずもない。人間として扱う。そして、男は思った。俺の何が煙なのだろうか、と。何かをすり抜けることも、散ることも、飛んでいくこともない、単なる人の形をした煙。男は試しに左手首を切ってみた。そこから出たのは、やはり煙であった。その煙は延々と天に昇り続け、やがて男は形をなくした。

「大宇宙創造聖黄金神」

 大宇宙創造聖黄金神が耳元で今日も囁く。生きろ、と。大宇宙創造聖黄金神の姿は見えぬが、いつだって左耳に居る。常に左耳に直接、言葉を発する。わたしは一度たりともありがたいとは思ってこなかった。しかし、大宇宙創造聖黄金神の言うことは絶対。今日も明日も生きねばならぬ。だから、詮方無く、恥ずかしさを忍んでおめおめと生きる。大宇宙創造聖黄金神がここに住み着いたのは、いつだっただろうか。わたしの記憶では、死ぬのを一度しくじってからだと思われる。睡眠薬を摂取したが死ぬほどの量ではなく、敢え無く母に見つかり、病院に運び込まれ、胃洗浄となって入院した事件があってからだ。大宇宙創造聖黄金神の存在を、わたしは別段邪魔に思っていない。大宇宙創造聖黄金神のしつこい囁きがあるので、まあ生きてみよう、生きねば、と思うのである。こうして人様に駄文を読んでもらえるのも、生きているからこそなのかもしれない。そう思うと、大宇宙創造聖黄金神を無下にはできないのだろう。

「ゾンビ」

 ゾンビが未だ蔓延るこの世界。多くの知の巨人たちが、闘えど、闘えど、姿を消さない。それがゾンビたる所以なのだ。そもそも芯まで腐っていて、ダメージをまるで受けないから、ゾンビは尽きない。果たしてヒトがゾンビに打ち勝つ未来はあるのだろうか。それを想うと憂鬱になる。おそらく、ヒトはゾンビになったほうが楽なのだ。ゾンビになる誘いのほうが甘美で、けっして堕落ではない、正当な進化で、ヒトはゾンビに為るのが必然なのだ。己がゾンビに為るときがやがて来るのだろう。想像する。怖い。その前に、一思いに、姿かたちが一切無くなるように、二度と復活することが無いように、焼き殺してくれないか。そして、貴方がゾンビに為ったのなら、この手できっと殺める。約束する。ゾンビに為ってまで、魂を生き永らえさせたくない僕たちは、潔さを選ぼう。見た目の美醜ではない。高潔を胸に抱けなくなったら、終わらせよう。