坐骨神経痛という名の症状が言い渡されて以来、アルバイトのほかはほとんど動いていない。
家では、原神をやっている。
なのに、筋肉関連の数値は改善している。
謎だ。
ガチャという射幸心を煽るシステム。
やめられないわけだ。
作るほうも、プレイするほうも。
ただ、わたしはやらないよ。
男は短髪とか、女はメイクとか。
そんな「男らしく、女らしく」がわたしは嫌いで。
一方で、「男らしく、女らしく」で「ありたい・いてほしい」を求める人たちもいて。
おそらく今後、「男らしく、女らしく」は淘汰されていくだろう。
だが、それも文化だと言うかもしれない。
たぶん、そうだろう。
このとき、果たして、その人々の主張も守っていかなければならないのだろうか?
多様性を守ることに繋がるのか?
今月は、マッチングアプリで二人とマッチングしたのですよ。
でも、一人目は精神が非常に不安定な方のようで、すぐに(二日で)姿を消してしまいました。
二人目は、一週間くらいやりとりをしたでしょうか。今思えばわたしが気に障る表現をしてしまい、連絡が途切れています。
あゝ、パートナーが欲しい。
わたしは、「迷う」=「選択肢の中からどれか選ぶこと」、「悩む」=「選択肢を考えること」と勝手に定義している。
わたしはこれまでぼんやり生きてきたので、迷いはすれど悩みはしてこなかったと思っている。
そして今、わたしは悩んでいる。好きだった筈のことができないことを。
来月さえ見えない。
身内に不幸があったとか、己の身に災厄が降りかかったとか。
そんなんじゃないけど。
悲しい。
ただ、悲しい。そんな夜。
昨日、愚痴をこぼした。
いつか、「愚痴には生産性がない」と、わたしは語った。
しかし、生産性だけでヒトは生きるに非ず。
無駄とか冗長とか、全部合わせて、人生なのだ。