蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

“『いつか逢う貴女のために』”

 思慮深い人の考察日記を読むのも好きだし、ただ何処へ出掛けて何をしたとかいう日記も好き。結構、みんな本音を語っているなあと僕には見える。僕も嘘は付いていないけれど、心の底で思っている差別的意見は言わない。そんなことしたらたちまち非難の嵐になるから今後もきっとやらないけど。何か無性に書きたくなったので、つらつらと思いつくままに記していきます。
 夜、好きな人と一緒のベッドで寝たい。行為はなくていいから。鬱病でそのうえ抗鬱剤を飲んでいるからなのか、そっちの欲があまりない。何か思っていたほど楽しくないし、疲れる。あと、相手を妊娠させるんじゃないかという恐怖も大きい。自分の子どもを残したくないから。だって、僕の子どもなんて二つに一つ。他人を殺す人か、自分を殺す人にしかならないと思っているから。たぶん他人を殺す場合、僕を殺すだろう。そんな考えを持つ前から欲は薄かったと思う。最初の恋人とは何もしなかった。若い男だというのに。したいという気持ちが発生しなかった。そう。そっちのほうはどうでもいいから、好きな女性と眠りたい。
 ヒトラーが子どもを作ろうとしなかったのは、「自分のような天才の子どもは苦労をする」という理由によるものだったそうだ。なんて美意識過剰なのだろう。誰かが言っていた「芸術家が政治をするとろくなことにならない」と。
ヒトラーは画家を目指していたし、最期まで美学の塊だった。芸術家としての才能が花開いていればよかったのに。




 ゆうさんのエントリー「好きだよ、好きじゃないかもしれないけれども」。コメント欄がないのでトラックバックで(僕にしては珍しい)。
>多くのカップルのどっちかが「こいつとは合わないなあ、、価値観違うなあ」って思う箇所があって、そいで、その後やっていけるかどうか気になったりするもんなんだろうな。
 思いました。僕は「生まれが貧乏(金銭面、精神面共に)」という劣等感が強いので、生きていく根底、支えとなるもの、具体的には家族が違うな、と。今まで付き合った相手は全員、上流階級の人なんだ(そんな無茶苦茶お金持ちではない筈ですが)と思って、ずーっと不安でした。一度もそんなことは口にしたことはありませんでしたが。
>好きな人の好きなものを好きになるというのは、とかく私にとっては「?」という感じで、それで、逆に、別に相手にも私の好きなものを好きになってもらわなくてもいいわって思うのは、なんだろう。
 好きな人の好きなものを好きになろうとはしますね。けれども、ほとんど無理でした。反対の場合で、相手に僕の好きなものを好きになってもらおうとは思いません。なんか図々しい気がして。あと、自分の悪趣味に対する劣等感かも。
>好きかどうかはわからないけど、いなくなったら寂しいなあ。
 かつてこれに似た言葉を恋人に面と向かって言われたことがあります。それを聞いてからは終わりへのカウントダウンでした。僕は好きなんだけど、相手は「わからない」。耐え切れませんでした。




 三原さんがおもしろいと書いていた「のらみみ」を見た。CBC(名古屋のテレビ局)製作とあったので少し嬉しかった。おもしろい。いい話だし。「のらみみ」みたいに居候キャラになりたい。誰か貰ってくれませんか、食費は余りかかりません。洋服をしまう空間を多めに頂ければあとは文句は申しませんから。炊事はできません。というか手が荒れるからやりたくないです。掃除洗濯なら引き受けます。




 人それぞれ、って思考停止なのか。んー、僕はすぐに「人それぞれだから」、「好きか嫌いかの問題だから」と結んで、考えを止めてしまう。はてなに顕著だと思うんだけど、自分の意見を筋道立てて述べられる人は立派だ。と同時に畏怖もある。その人が無能な僕を糾弾しているようで。




 知ってるか知らないかを答えるだけのクイズ番組は好きじゃない。そして、知らないのを笑う人も好きじゃない。少なくとも僕は無知で他人の無知を笑える立場に無い。




 昔言われたように、自分の中に「軸」が無いんだろうな。言い換えれば、「神様」とか「宗教」とか。だから、あらゆることが判断できない。意見が述べられない。あー、でも、あるのかな「何でもあり」という神様が。例えば小説であれば、見た目が美しければいいじゃないとか、物語が破綻していようがいいじゃないとか。ようは受け手の取り方次第でしょってなっちゃう(話が同じところに戻ったな)。でも、これだと世間一般には受け入れられないみたいだ。だから、現実に絶望する。




 ことわざとか法律とか、できた当時の背景を考えて使わなければ意味が無いと思う。憲法なんかが最たるものだと思う。何か問題があって、それを解決するという目的を達成するための手段なのだから。時代が変われば、問題が変わり、目的も変わり、手段も変えなければ形骸化していしまう。




 AC(アダルト・チャイルド)という概念がまだまだ日本では受け入れられていないんだなと感じる。親は大切にしなさい。兄弟とは仲良くしなさいみたいな。吐き気がする。まあ、今は前ほど反発心はなくなった。ただ許してはいない。現実的な妥協。
 「子どもは親を選べない」。もっともだ。これに対して、「子どもは親を選んで生まれてくる」と言う人もいる。最近、これを僕は都合よく解釈して、ある意味当たってるなと思っている。自分はそれだけの試練を望んだのだ、と。親より先に僕が自ら死んだら、地獄から「ざまあみろ」って言ってやる。あんたたちが「立派な教育」を施した子どもは、自殺しましたよって。命を絶ってもやりたいことがあるんだ。だから、生んでくれたことと逆境を与えてくれたことには感謝している。
 老後の面倒なんてみるつもりはない。




 所謂、できちゃった婚がわからない。馬鹿にしているのではなくて、純粋に。子どもができたから結婚という筋が理解できない。理由になっていないと思う。




 その昔、現在の法律になる前。飲み会の帰り。飲酒をした友人が車を運転するということになって「乗ってったら」と誘われたけど、断った。他の友人たちは乗っていった。酒は○○○○水だ。あんなものを飲んだ人間が運転する車に乗りたくない。




 「あの人は私がいなきゃ駄目だから」と言われる男は駄目人間なのだろうか? 流石に、暴力をふるうのはまずいと思うが、借金漬けとか女遊びとかするのは不道徳だけれど、病気なんだとおもう。心理学で言うところの「共依存」ではある。だが、そうなるとホストやキャバクラ、カルト宗教、ギャンブルにはまる人たちはどうなんだとなる。本人たちが幸せなのだからOKじゃないかと言うこともできる。ただ、直感的に「うーんそれはいかんだろう」と認識している。この辺の線引きがはっきりしない。




 もう死ぬと決めたから。人間嫌いとか、付き合いの悪さとか、話下手とか、その他もろもろ諦めた。好きに「変人」をやろうと思う。この卑しい人間が、美意識だの美学だのを並べ立てて、みっともなく騒いでやる。何でもありの神様を信仰しているのだ。世間の目が何だ。うるさい。煩わしい。太宰も言っていた。

 (それは世間が、ゆるさない)(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)