蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

nobody

  それは差別なのか何なのか。ずーっと思っている。考えてはいない。わたしの基準だと「思う」は抽象、「考える」は具体。具体で組み立てて抽象に還元したい。足が不自由なお年寄りのお客さんがいる。その人は車いすや杖を使わないで来る。人並みに歩けないことを、本人は自覚しているようだ。「車いすを使わないと」と口にする。しかし、いつまでたってもその気配はなく、毎回その人が歩くことの補助が必要である。動くイスを貸し出したり、店からタクシーまでの間に肩を貸している。ほかのお客さんの例が頭に浮かぶ。ある目の不自由な人は、事前に欲しいものを電話で伝えてくれる。完全に脚が動かない人は車いすを使っている。甘えるなって思いたくないけど、本心では思っている。でも。わたしも障害者だ。甘えるなって思っていいのか。ここで一旦は「甘えは許していい」と思った。しかし。昨日、財布を渡してきて、ここから硬貨を出せと言ってきた。それは、違わないか?  たしかにその人はコミュニケーションに少し難がある。こちらが言うことは伝わっているようだが、あちらからが言うことはわからないことも多い。何か障害を持っているのかもしれない。でも、何だかなあ。さらに、昨日はがっちり寄りかかられ腕の肌を触られた。そこは、不快だった。これでもその人の手助けを続けるのが、わたしの望む「弱者に優しい社会」なのか?