蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

みんなに好かれようとまではいかないが、なるべくみんなに嫌われないようにしようという気持ちが、僕は強いのだと思う。


加減のいる行為に関しては、加減に失敗してしまうのを恐れて、最初からやらないようにしてしまう。「女性に年齢を訊いてはならない」、「愚痴をいってはならない」、「自慢話をしてはならない」。このようなことだって、相手ごとに距離とか深さを考えて言えばよいのにそうはせず、いたずらにその類のインプットを繰り返し、自分を狭め、アウトプットを止めて、思考停止に陥ってきた。踏み込みすぎて嫌われるのをおそれて、一律に距離を置いて接してしまうのは、根底に「人とあまり接したくないから」というのがあるのかもしれない。いや、本当にそうだろうか。


昔から、共通の話題で盛り上がるという経験がなかった。
嫌なことを嫌だと言えなかった。
父の姿を見て、男性は自分を大きく見せるものだ、自分の立場を盾にして脅しをかける怖い存在だと思い込んできた。対して、そんな父から身を守る母の姿を見て、女性は世間体(女性同士のつながり)を気にし、本音と建前を使い分ける怖い存在だと思い込んできた。
そして、そういう人たちには質問をされても、詮索をされてるようにしか思えなかった。そのあたりが辛かったのかな。


そこで僕のいけないのが、解決手段としてすぐにインプットに頼ること。何かすべてが上手くいくようなバイブルがあるんじゃないかって。自分に問うということをしてこなかった。それが、最近、僕が自分自身に問うようなことを問うてくれる人と話せば、詮索されている気にならないことに気づいた。相変わらず話題には欠くけれど、そんな良い加減[good balance]の問いがあるなら僕だって喋れる。それを自分と相手に見つけていこう。


だから、接したくないんじゃない。今までの的外れな指摘や、乏しい経験から、脳が「人と接しても楽しくなる確率は低い」というある意味合理的な判断をくだしているから、そうしてしまうんだ。脳に騙されるな。


こう考えて書こうと決めたのは、実はまた本に頼ったからなんです。アウトプットをしなきゃな、とは思っていたのですが、どうもそれすらわからなくて。でも、もう当分はいいかなってやっと思えました。空手の道を究めるには、まず型からしっかり覚えて、型が身についてから、応用を利かせていくのだと。少し型を覚えたので使ってみたくなって。

自分は「変」だけれど、「特殊」ではない。人並みに、わかってほしいという願望があるってことを認めるんだ。伝わることや共感ってのは快感なんだから。