蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

文学フリマ

 第二十八回文学フリマ東京 (2019/5/6)に出店します。お金も振り込んだので、後戻りができません。たぶん。

 書き下ろしの新刊(一万字くらいの掌編)を出します。「夢、現、夢また夢」というようなイメージで、わたしとは切っても切り離せない「夢」にまた取り組みます。

 原稿は半分くらい進みました。三月末までに書き終えて、そのあと推敲しようと思います。

 心配なのは作品ではなく、文学フリマゴールデンウィークの最終日だと言うこと。新幹線、座れるかなあ。

一服

 おそらく大半の人たちは気付いているのに、わたしは気付いていなかったことを今日、教えてもらった。

 人類はどれだけ誕生したのだろう。億じゃすまないだろう? 兆単位? それとも京までいくか?

 とにかく、それだけヒトが存在したならば、自分と同じことに悩み、同じことを考えたヒトがきっといる、と。

 つまり、何を思っても先人がいる。

 ただ。

 表現方法を変えれば、新しいと感じさせることはできる。

 同じ思想でも、例えば、選ぶ言葉を変えれば、新しく輝く。

 さあ、今日から始めよう。

「メロディーズ」

 詩にメロディーは無い

 死にメロディーは無い

 即ち、詩=死

 古来伝えられてきたこと

 

 しかし、断頭台にはメロディーがある

 そして、詞はメロディーが無ければ成立しない

 詩、死、詞

 わたしは私(シ)を歌う

 

Alternate Take

 詩にメロディーは無し

 死にメロディーは無し

 即ち、詩と死は等価

 古来より伝えられしこと

 

 しかし、断頭台にメロディー有り

 又、メロディーに詩を乗せれば、それは詞となる

 詩、死、詞

 私(ワタシ)は私(シ)を詠む

姑息な日記

 言葉の意味の変わり目に思いをはせる。スラングとか流行り言葉ではなくて。

 例えば、「姑息」。元々は、「一時しのぎ」だったらしいけれども、今は、「卑怯」の意味で広く通じる。

 これは書き手が意図して起こしているのだろうか? 或いは、読み手が文脈から読み誤ってしまうからなのだろうか? また、徐々に変わるのか? それとも一気に変わるのか? も。

 その辺を掴んでいないと、文士を続けていけなさそうなので。

夢、現、夢、また夢

 毎日、毎日毎日毎日毎日、繰り返し同じような夢を見ている。

 町が変わっていく、引越し、声優さんが近所に来た、犯罪。

 疲れる。気が狂いそう。眠いから、眠りたいのに、眠りたくない。

 太宰は三十九歳を目前にして死んだ。その歳がわたしに近付いている。

 しかし、わたしはその倍以上掛けないと・賭けないと成し遂げられそうにもない。

 論理的? に考えればそうなのだが、無理かもしれない。

 この眠り薬では死ねない。わかっている。でも、試したくなる。

 こんな日記が夢であればいいのに。

迷悩

 ふつふつと湧き上がる虚無。わたしはせっせと掬い上げ、胸に抱え、貯め込んでいる。わたしは何も持っていない。わたしは何の役にも立たない。無は罪。そんな罪悪感に苛まれる。この耳鳴りは、きっとそれを表しているに違いない。

 

 無から生み出すこと。しかし、わたしはそれをやらねばならない。腕組みをしながら、項垂れながら、上半身を揺すりながら。やっとの思いで言葉を繰り出している。

 

 ふと、思う。わたしが伝えたいことなんて、本当は無いのかもしれない。ただ、ただ、うわべだけの美しい言葉を並べていれば自己陶酔できる。そして、その嘘を繋いで、紡いでいけば、遂に完成。

 

 でも、それでは貴方に申し訳ない。と同時に、「もっと自分勝手にやっても誰も文句言わないよ。自惚れるな」とも思う。とりあえず今は後者を選んでみる。好きなことを好きなようにやる。この制約の下でやってみる。余りに自由な不自由。美学のように貫くよ。