蝶になったあの日から

乙女心と秋の空 / HEAVY MENTAL HERTZ

二枚

 興味、趣味、嗜好について気になることを書き出してみる。
 「これをおもしろいと言う奴って何なの?」という発言。中には心底不思議に思って説明してほしい人もいるのだろうが、多くは他人を見下す言葉であると僕は推測する。何故、「僕はこれをおもしろいと思わない」の一文で終わらせないのだろうか? 僕はそれで終わらせる。もしくは、感想そのものを表明しないでいる。
 具体的な場面を想定する。人参を嫌う人がいて、「人参をおいしいって言う奴何なの?」と言ったとする。この場合、嫌うか好むかは味覚の違いとしか言いようがないのでは? 僕はそう結論付けてしまう。そして、それを何でも適用してしまうので議論が成り立たない。そんなもの人それぞれでしょうが、放っておいてください、と。そもそもこの例えがおかしいと言われるのかもしれないが、僕にとっては一緒だ。
 突き詰めていくと、良いも悪いもないと考えている。多数の人に支持されるのが「良い」で、そうでなければ「悪い」。よく「客観的に考えて」などという枕詞をつけて始める説明があるが、これも客観的などありえないと考える。主観が取り除けるわけがないと思うからだ。
 僕は遅刻をされると不快だし、自分がしても相手に不快な思いをさせて心苦しくなる。日本の多くの人は同じであると直感的に思っている。しかし、例えば、遅刻をしていくのが礼儀であるという文化圏で育った人は僕とまったく反対の反応を示すことになる(確か何処かの国にあったはず)。例えでなくても、実際にそういう人がいるし、そもそも時間におおらかだという人もいる。沖縄あたりに多いらしい。そうすると、そういう文化圏の人と対話、意思の疎通、付き合い、所謂コミュニケーションはどうすればいいのか。互いに異なる文化、価値観を持ったもの同士が交わる場合、思いやりというのは我慢と同義なのだろうか?
 やっと大切な問いにたどり着いた。“互いに異なる文化、価値観を持ったもの同士が交わる場合、思いやりというのは我慢と同義なのだろうか?”これだ。書きながら考えるって素晴らしい。有用だ。